『夜をこめて とりの空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ』
『どこぞでお会いしたのだろうか』ですって…
確かにお会いしたではありませんか。
なのに貴方様は、もうお忘れになって。
百足はとてもおぞましく、不吉で気味の悪い生き物だとヒトは言う。
また、簡単なことでは死なず、一匹見つけたら"つがい"がいるとも。
そうした口伝ては、現在に至るまで何も変わらない。
ある日、一人の男が、自宅の納屋で百足を見つけた。
口伝てに聞くそのしぶとさから、何としても殺さねばと思った。
だから、近くで掃除の手伝いをしていた妻子に、こう叫んだのだ。
「そいつはしぶといから、絶対に逃がすな!」
男はその数日後、奇妙な体験をすることになる。
───羽衣をまとい、足を引きずりながら一人の女性が歩いてくる。
羽衣から垣間見えた横顔は、まるでこの世のものではないような美しさで。
なのに、どうしてか気持ち悪いという思いがよぎったような、
ありえぬことを、懐かしく感じていた。
(どこぞでお会いしたのだろうか…)
そんなことを考えていたら、あっという間に距離は縮まり、すれ違いざま…
『その節は、どうもありがとうございました』
「え…!?」
咄嗟に振り返ったものの、女性の後ろ姿はもう遥か遠く。
「お…お待ちを!お待ち下さい!」
慌てて呼び止めても、女性は振り返ってはくれなかった。
見知らぬ女性から言われた、身に覚えのない礼。
男は女性と数日前に会っていることなど、知る由もない。
思い返せば迂闊でしたね。
ただ歩いていただけなのですが、わたくしはどうも人目につくようです。
…そう、どちらの姿であろうとも…。
数日前に初めてお会いした時、貴方様はわたくしを殺そうと致しましたのよ。
『そいつはしぶといから、絶対に逃がすな!』と言いましてね。
よってたかって、箒やら草履やらで、執拗にわたくしを潰そうとするものですから、
必死の思いで逃げましたとも。
貴方様の一撃が、わたくしの左足を奪い取ったのですが…
わたくしがそそくさと陰に身を隠すと、貴方様はこう言いましたね。
『逃がしたか…まあいい。次に見つけたら必ず仕留めよう』と。
ふふ…そうまでして、わたくしに逢瀬を望みますか?
いいえ、いいえ。その時の言葉は違う意味だったと、存じ上げておりますのよ。
ですが、貴方様はそれ以上わたくしを追い詰めることなく、逃がして下さいましたね。
ですから、こうしてお礼を申し上げにきたのです。
「その節は、どうもありがとうございました」と。
思えばあの時、わたくしは命を落としていたかもしれぬのですから。
ヒトも花も蟲も、散り逝く儚さはみな同じ… わたくしは、貴方様に命を救われました。
殺されそうになったなどとは思いません。
とはいえ、皮肉ですわね。
貴方様の言った「次」が、このような形でお会いすることになるとは。
でも仕方のないことでしょう。
わたくしをまた殺そうとする貴方様に、お礼は言えませんから。
『お…お待ちを!お待ち下さい!』
懸命だこと…殺そうとする時も、この姿のわたくしを呼び止めようとする時も、
貴方様はいつだって真剣ですわね。ヒトの成せる業ですわ。
ですが、わたくしは振り返りません。
いくら百足とて、わたくしには「ムシ」としての誇りがあります。
ですから、わたくしは貴方様にお会いしません。
いくら恩義のある御方とはいえ、勘違いされては困ります。見くびらないで下さいませ。
わたくしと簡単に会うことは、叶いませんのよ?
ふふ…ヒトとはつくづく、都合の良い生き物だこと…。