蛭の物語

『心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな』


それは綺麗な下弦の月が浮かぶ、夜も半ばの出逢いだった。
ちゃぷん…と、静かな水音一つ。
細い指が水面を揺らす。
その音で、彼は目を覚ました。
「誰だ…」

『逃げてきたの…私』

 

 

───娘は走っていた。息も切れ切れに。
涙は頬を流れず、風をきって目じりを伝い、点々と横に走る。
まだ宵も入りの頃、月は雲隠れして娘に光を分け与えてくれない。
娘は心細かった。何もかもが、自分を闇の中へと追い詰めている…
「きゃっ」
突然、下駄の鼻緒が切れて、娘は転んだ。
やわらかな草の上───娘はしばらく起き上がらず、地に突っ伏して泣いていた。
声を出さず、ただ肩を震わせて。どうせ誰もいないなら、声をあげて泣きたいものだ。
ホウ…ホウ…と、梟の鳴き声が不気味に反芻する森の中。
娘は仕方なく顔をあげた。土で少し汚れた顔と涙を拭いて。
「池だ…」
目を丸くする。まるでくり抜いたように、そこだけが月の光に照らされていて。
なんと不思議な空間だろう。こんな場所があったのか、と娘は思う。
目の前に忽然と現れた湖畔に、娘はそっと寄り添った。覗き込む。
夜の闇で、底が見えない。いつの間にか雲間から現れた下弦の月だけが、
ぽっかりと黒の水面に浮かんでいる。
怖い、とは思わなかった。確かに不気味ではあるが、それより何故か美しいとさえ思える。
娘はもっと覗き込んだ。そして水面をなぞるように、一筋の線を指で引きながら呟いた。
「逃げてきたの…私」

 

 

『好いてもいない男のもとへ嫁ぐなんて嫌だったから』と、ヒトの娘は続けた。
それが聞こえるまでは、恐らく俺の余生などまるで変わらぬ空虚なままだっただろう。
今にして思えば、そんな気がしなくもない。
だがその時の俺は、ただ睡眠と静寂を壊されたことだけを疎ましく思い、
相変わらずこの俗世間に永らえている己に、ほとほと嫌気がさしていたのだ。
ある同族の長は、こう言っていた。
"命はどれほど儚くとも、天から平等に預けられた尊いものです"
また、ある同族の嫌な奴は、こう言っていた。
"命を惜しむのは決して欲張りじゃないが、命を嘆くのはちょっと欲張りじゃないか?"
それらの言葉が、耳について離れない。一体なんだというのだ。
心にもなく生きる命がなんだというのだ。
それを思うと、己の在り方を嘆くこの娘が、自分に似てなくもないと思った。
だが、それらの言葉を繰り返し考えると、この娘に言ってやりたくなる。
───運命を受け入れねばならぬのは、誰とて同じではないのか?───
不意に、まわりの空気が揺れた。途端に広がる悲しい匂い。
これは、ヒトの「涙」の匂いだ。
…娘が泣いていた。

 

 

「わかってる。家出娘のわがままだって。ただひと時の現実逃避だって。
私は所詮、井の中の蛙よ。でも嫌なの。
自分の人生を他人に決められるぐらいなら、死んだ方がずっといい」
娘が流した大粒の雫は、黒の水面に小さな波紋を起こす。
やがて娘は、それまでこらえていたのであろう…張り裂けんばかりの声で泣き叫んだ。
帰りたくない、と。
生きていたくない、と。
『帰れ』
「…え?」
ふと、娘はまた池の中を覗き込んだ。

 

 

そんなに顔を近づけるな。そちらからは俺が見えていないのだろうが、
俺からは嫌というほどにはっきりと、そちらが見えているのだ。
くそ…言わねばよかったというのはあとのまつりか。
思わず言ってしまったあとに、俺は後悔した。
俺と娘は、限りなく近しい位置で顔と顔を向き合わせている。
俺と娘を隔てるものは、この浅いようで深い、池の水面だけだ。
いつのまに雲が晴れたのか。月が水面に下りてきている。今宵は下弦か…
帰れと言っても帰らぬ娘は、何を思ったか急に微笑んだ。
『綺麗…』
何だ?ああ…
気まぐれに晴れた雲が水面に月を映し、娘を心変わりさせたのか。見事な悪戯だ。
しかし、今宵の下弦も見事な弧を描いている。
この月を見たならば、ひと時の嘆きなど取るに足りぬものだろう。
水面を介して見る月は、より趣がある。ヒトの娘にしては、なかなか感性が豊かだな。
『ふふ…私、本当にただの駄々っ子ね。そんな気になったわ、帰らないと』
穏やかな顔で残念そうに呟いて、娘は立ち上がった。
『いつかその月のように、気づかなかったものを愛しく思うかもしれないから』
やれやれ、やっと…
『生きてみないとわからないものね。私も、あなたも』
………は?
『だからまた来ます。今度は快く出迎えて下さい。お邪魔しました』
たっぷりと皮肉を秘めた笑顔でぺこりとお辞儀をし、娘が去っていく。
ま…待て!貴様が見ていたものは何だ?月ではないのか!?
それに何だ、快く出迎えろと言ったのか?
馬鹿を言うな、何故俺がそのような………いや、考えておいてやらなくもないが。
ただし、今度くる時はもう少し静かになっていろ。

 

 

それは綺麗な下弦の月が浮かぶ、夜も半ばの不思議な出来事。
池の中に住まう蛭は、つくづく思った。
ヒトとはかくも、読めぬ生き物だと───